山陽日日新聞社ロゴ 2011年2月27日(日)
尾道鉄道の思い出
 脱線転覆事故の生き証人
  御調町の中田永由さんが証言
 40年間に亘る尾道鉄道の歴史を掘り起こしてゆ
く時、避けては通れないエピソードがある。終戦
の翌年昭和21(1946)年8月13日に発生した脱線
転覆事故である。
 事故の概要を、昭和21年8月14日及び15日付の
山陽日日新聞(当時は山陽新聞の紙名)の報道を
もとに整理してみると、午前10時30分尾道駅発市
行きの電車が、午後1時過ぎ頃に木ノ庄町の石畦
駅を出発して間もなく、急勾配に差し掛かったと
ころでポールが外れ、そのまま約1kmほど逆送し
て脱線転覆した。乗客は約150名と超満員状態
で、死者45名、負傷者56名という大惨事となった。
 この事故車両に乗っていた一人という生き証人
の方が、御調町に今もご健在です・・と、御調町
の体協役員・松井利之さんからご紹介頂いた。
 中田永由さん、78歳(=写真)。中田さんが13
歳の時に遭遇した事故であった。
 『松永の親戚宅から汽車で尾道駅へ戻り、尾道
鉄道に乗り換えて御調へ帰る道中、畑手前のトン
ネルに入った時、突然ポールが外れ、電車は停止、
車内も真っ暗になりました。運転士が後方の女性
車掌にポールをはめるように叫ぶも、車内は身動
きも出来ないほどのすし詰め満員。その上にトン
ネル内で電気が落ちて真っ暗ですから対処の仕様
がありません。どうにも出来ない内に電車はスル
スルと逆送を始め、下り坂でしたからどんどんス
ピードは増していきます。外側にぶら下がってい
た乗客は逆送中に飛び降りたり、振り落とされた
人もいました。「しゃがめー!しゃがめ−!低く
ならんとひっくり返るぞ−!」。運転士の必死の
叫び声が車内に響きます。カーブに差し掛かった
時、電車の屋根の角が電柱(電車用)に衝突し、
屋根と車体の下部分か真っ二つに割れました。そ
のまま真っ二つになった車両は線路下を流れる崖
下の川の方へ落ち、乗客は電車と一緒に川へ落ち
た者と、レール上に投げ出された者とに分かれま
した。私はレール上へ投げ出された方で、大人二
人の間に潜り込む形になっていました。起き上が
って見ると、電車の姿はどこにも見当たりません。
ただ泣き声と呻き声、叫び声が響く地獄絵図が広
がるばかり。着ていたシャツは血まみれでしたが、
どこを負傷しているのか分かりません。そのまま
呆然としながら市村まで歩いて帰りました。足は
裸足で、途中の店で藁草履を貰って履きました。
市村に着くと、郵便局近くにあった村井医院で診
てもらいましたが、タンコブ程度で血まみれにす
るほどの傷は見当たりません。全て周りの負傷者
の返り血だったのです。今でも現場付近のトンネ
ルを通ると、あの夏の日の出来事が思い出され、
戦慄が走ります…』。
 事故の一部始終を克明に記憶されており、貴重
な証言である。少年の心にグサリと刻み込まれた
記憶は、事故から半世紀以上が経過した今も、忘
れたくとも忘れられないものになっている。
 戦後の混乱期、資材も満足に調わず故障は日常
茶飯事だった電車、今ではおよそ考えられない乗
客数に加え、トンネル内での停止、難所ともいえ
る急勾配、経験の浅い見習い運転士と、悪条件が
重なり過ぎた結果の惨事であり、事故は起こるべ
くして起こったと言えなくもない。
 石畦の事故現場近くには、「南無妙法蓮華経」
と刻む慰霊碑が建つが、今となってはその存在と
由来を知る人も少なくなって来ている。



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